私は昭和53年生まれ。宮城県の方はこの数字に強い思いがある。
宮城県沖地震(Wikipedia参照)の年に自分は生まれた。母親はお腹にいた私を守る為に死に物狂いだと言っていた。そんな私が今、仙台にいる。
東北地方太平洋沖地震が東京で起きた時、東京では震度5。自分の直感でこれは東北の大きな地震だと思いすぐに父親に電話をかけた。
仙台の親父と電話がつながった。いつも能天気な親父が電話口で「ハァハァ」と息遣いが荒い。その後数秒して、携帯電話が切れてしまった。どういう状況なのか分からなくなり、とても不安になった。
その後 父とも母とも親戚とも連絡がつながらなくなり、頭の中が真っ白。
会社の青山、そして大阪までも電話がつながらなくなった。
そして東京で映し出されるテレビ。
自分が今何ができるのか真剣に考えた。
そして被災地の仙台に行こうと。深夜0時に決行を決めて車に乗り込んだ。青山からデータ復旧用の専用機械を二つ投げ入れた。その道中についてここに残す。
東京に向かおうとした時のカーナビ。都内の様子では通行止めがほとんど。東北自動車道は使えないだろうと思い、一般道でカーナビをセット。
自宅目の前のコンビニエンスストア。地震のせいで食料品が手に入らない。どこで自分の食料含め手に入れようか悩んだ。
24時間営業のはずの自宅近くのスーパー。地震の影響で閉店している。
国道4号線に乗ったのは良いがところどころ渋滞。二本松でガソリンが尽きてしまい、ガソリンスタンドでは長蛇の列。ガソリンが手に入らない。ここまでかと思ったが、車整備会社佐藤商会の佐藤社長に対応してもらう。
頭を下げて事情を説明し、お店の車からガソリンを抜いてもらい、改めて仙台に向かう事ができた。災害で燃料がどれだけ貴重かという状況なのに。。
佐藤社長
本当にありがとうございました。頂戴しました10リットルのガソリンで仙台まで無事に着く事ができました!
国道4号線の山崩れの写真。別な県道を通って走る。
宮城に入った頃のコンビニ。並ぶ行列。
この大切な4号線を守っていただいた皆様のおかげで今、私は仙台にいる。
私が今やれる事は何なのか。今も仙台営業所で考えている。